明治21年(1888年) | 初代 張 加枝 18歳 中国福建省生まれの彼は、神託により東方日本へ向かうことを決意する。 |
明治22年(1889年) | 上海より船に乗り。 不安と希望を胸に長崎の土を踏んだ。当時、外国人は東京、横浜、神戸、長崎などに設けられた特別区にしか居住ができず、長崎には福建華僑が約500人居住し、中国人社会を形成していた。 |
明治32年(1899年) | 『安政条約の改正』 外国人の日本での居住の自由が許可された。来日後の加枝青年は日本語を覚え資金を貯めることに専念していた。倉庫番、貿易事務、料理店の出前持ち、中国雑貨の行商など苦節10年を乗り越えた彼は、永久居住地を捜すため、熊本、佐賀と訪ね歩いたが、結局地の利から博多を永住の地と決めた。この間に『日清戦争』が起こるなど、中国人にとっては苛酷な環境であった。明治35年に結婚、翌36年2代目兆順が生まれる。 |
明治37年(1904年) | 福岡最初の中国料理店(通称:小鳥屋)を開店。場所は後の玉屋裏付近。メニューは、チャンポン、皿うどんが主体。川端『文六』の素うどんが2銭の時代に、チャンポン10銭の破格値。それもそのはず、麺に使う唐アク・モヤシ・玉ネギ・キャベツなどすべて上等な物を長崎から汽車便で取り寄せていた。本格中国料理ということでしばらく繁盛したが、やがて閉店。 |
明治42年(1909年) | 再び中国料理店『福海樓』を開店。 東中洲電車道沿い『金星堂』近く。翌々年には、東中洲の後の映画館『世界館』の裏付近に移転。開店当時のメニューは、ツバメの巣のスープ、フ力のヒレの煮込み、ナマコと鶏のうま煮、鶏の丸蒸しスープなどいずれも1品1円50銭、今の5000円前後というところ。最初のお客は県庁の役人3人連れで『うまか、うまか』と言って食べ、同僚に伝え客が増えていったという。 |
大正3年(1914年) | 福岡で初めて、モヤシ作りに成功。 第一次世界大戦勃発。当時福岡は野菜不足、初代加枝は、出入リの八百屋にモヤシの作り方を教え、成功。これが福岡でのモヤシ作りの始めである。この『日英同盟』時代、中洲にドイツ人捕虜収容所ができる。その時、チャンポンを差し入れに行く。ドイツ人が青島(チンタオ)に居たことがあり、中国料理に親しんでいたので、大いに喜んだ。新聞にも取り上げられ、福岡の人に宣伝する一つの手段となった。 |
大正10年(1921年) | 『福新樓』命名。 店名を『福海樓』より改める。 |
昭和2年(1927年) | 当時は珍しい3階建て。 東中洲の映画館『友楽館』裏、通称”小便横丁”近くに移転。 中国から梁に使う大きな材木を取り寄せて建築する。昭和5年、2代目兆順に長男・仁興生まれる。 |
昭和12年(1937年) | 日中戦争勃発。 当時、福岡在住の中国人は約20人、お互い励まし合うも、中国料理の材料入手が困難で、開店休業。 |
昭和19年(1944年) | 戦火拡大、米英との戦いに。 東中洲の『福新樓』も強制疎開をさせられる。梁がとてつもなく大きく、しっかりと構築されていたので、取り壊しに手間取ったとのことである。 |
昭和23年(1948年) | 『福新樓』甦る。 東中洲仲之町で再起。中国料理とともに、アメリカ進駐軍相手にビフテキハウスもオープン。 |
昭和26年(1951年) | 本格的な中国料理専門店として。 東中洲千日前に移りスタートする。2代目兆順は、福岡県下で料理学校の講師をつとめるとともに、テレビの料理番組にも出演、ユーモアをまじえたユニークな教え方で、生徒や視聴者に人気があった。今ブームの料理学校の先駆者でもあり、中国料理の普及にもつとめた。 ・昭和30年 初代加枝老衰のため死去。享年86歳 ・昭和32年 渡辺通5丁目に別館を開店 ・昭和40年 大名2丁目に赤坂門店を開店 |
昭和43年(1968年) | 天神に4階建てビル。 渡辺通別館と赤坂門店を閉じて、天神のこの1店に力をいれる。 初代加枝は午(うま)年生まれ。 この干支(えと)にちなんで、シンボルマークを”海馬”(シー・ホース)という”龍の落とし子”に決定する。 |
昭和54年(1979年) | 6階建て新館オープン。 新館をつくり、本館の北玄関と国体道路側の南玄関がつながり、お客様も便利に。昭和58年、再び増築。 |
平成元年(1989年) | 『中国厨房 新界』をオープン。 |
平成4年(1992年) | 『チャイナ・カフェ』をオープン。 |
平成16年(2004年) | 1996年8月10日、福新楼創業100年を迎える。 |
平成26年(2014年) | 2014年3月31日をもって、天神より移転のため一時休業。 2014年5月7日 今泉にてリニューアルオープン |