福新楼はワンランク上の中華料理店。
焼鶏に心酔し、よく知人を連れて行ったっけ。
1985年に河原成美さんが福岡 市大名に暖簾を上げたラーメン店『博多 一風堂』は、2005年4月、 全国に二十七店舗を数えるまでに成長した。この二十年間で一風堂と河原氏が全国に及ぼしてきた豚骨ラーメン旋風は計り知れない。そして、いま河原さんは、中国に日本のおいしいラーメンを広めたいと奔走している。日本と中国を半々の割合で行き来する河原さん。取材当日、一風堂のテストキッチ ンでは一週間後に大名本店で開催 される「四季のラーメン・春かすみ」の試作が続いていた。 1985年に河原成美さんが福岡 市大名に暖簾を上げたラーメン店『博多 一風堂』は、2005年4月、 全国に二十七店舗を数えるまでに成長した。この二十年間で一風堂と河原氏が全国に及ぼしてきた豚骨ラーメン旋風は計り知れない。
福新楼は小僧の僕には敷居の高い「ワンランク上の中華屋さん」のイメージがありました。小学五年生から福岡に住み始めたものの、初めて訪れたのは二十六~二十七年前になるでしょうか。焼鶏の食べ方に感動しました。小麦粉をクレープのように薄く焼いた中に、鶏肉や味噌、キュウリなどを包んで食べる。その食べ方もさることながら、テーブルに運ばれてきた料理を各自で包む、お客を料理に加担させるその臨場感に引き込まれました。以降「あの人を連れて行ったら喜ぶだろう」と焼鶏目当てに何度も訪れました。主にガールフレンドを連れて行くことが多かったかな。「これは、こげんして食べるったい」と最初の一つを包んであげると「へぇ~、よく知ってるね」と羨望の眼差しを向けられることが嬉しかった。たった一度しか行ったことのない店で、二度目からはすっかり常連の顔をして……。あ、ちゃんと親父やお袋も連れて行きましたよ(笑)。
現社長の張さんと初めてお会いしたのは『シティ情報ふくおか』を発行するプランニング秀巧社の集まりでした。最初の『新界』出店を前に、張さんはその構想を熱く語ってくれました。出店が平成元年だそうですから、十七年前ですね。まだ三十歳にも満たない張さんが眼をキラキラさせて「こんな店をつくりたいんです」と話してくれた表情を、今もしっかり記憶しています。僕も負けじと自分の温めている店の構想を話した。すぐ近くで台湾小皿料理を出す店をやりたいと考えていたんです。結果的に僕は実現できなかったけど、張さんは『新界』をオープンし、若者に中華料理への門戸を開いた。中国文化の発信です。少しして『新界』は親不孝通りへ移転し、ますます繁盛したよね。九州中のブイブイ言わせる若者が週末は博多を目指し、親不孝通りで踊り明かした。彼らの視野に『新界』は、心地よく映っていましたね。
親不孝通りで二年を経て、警固神社の宮前通りに店を移した『新界』。昨年からの大改装で、福新楼北玄関側二階に『ニューテリトリー新界』として営業している。最近は、麺と粥の店『張’S(ジャンズ)』も始められ、また甘栗も売っているそうですね。同業者として「張さん、頑張っているな」と頭が下がります。さすが百年の歴史を持つ福新楼の四代目。僕も負けてはおれません。
そうそう、僕は福新楼で厄払いを三回経験しました。先輩の時、自分の時、続けて後輩と、いつも酒まみれで、最後はベロンベロンに酔っぱらって……。懐かしいですね。そんなバカをやっても温かく受け入れてくれる大きな器の福新楼。
百年の節目にふさわしく、これからも中国文化のお手本として提案を続ける店であってください。肩肘はらない雰囲気の店と、めいっぱい肩肘をはりたい晴れの舞台を提供してくれる店、どちらも内包する福新楼に期待しています。
PROFILE
力の源カンパニー 代表取締役
河原 成美(かわはら しげみ)さん
1952年福岡県(旧城島町)に生まれる。
二十六歳でレストランバー『AFTER THE RAIN』をオープンし、三十二歳でラーメン『博多 一風堂』を創業。国内では『博多一風堂』の全国展開をはかり、中国・上海に『78(チーパー)一番ラーメン』の出店を続けている。ラーメン業界に与える影響は大きく、また飲食業界の向上と活性化に尽力している。
力の源カンパニー/福岡市中央区薬院1-10-1